キリキリ My Diary

趣味を載っけます

劣等感

まずはじめに。

このタイトルは、3ヶ月ほど前から下書きに溜めていた激重文章なのですが、このままだと
・毒を吐き出す
・弱さを自認する
・自分自身を振り返る
という本来の目的が成されないままになってしまう上、ちょうど思い出すタイミングだったので多少加筆の上公開します。
前述通り完全に激重な内容なので、以下本当に興味のある人だけ読んでみてください。





私は昔から、『自分が他人からどう見られているのか』を異常なまでに気にしてしまう性格だ。
それ故、相手の態度や表情、話し方に対してとても敏感に反応してしまうことが多々あり、対人関係のコミュニケーションというカテゴリにおいて、私自身は苦手意識というかある種の『恐怖心』を常に抱えたまま生活している。
いや、かつて私が小さかった頃は、そんなことを深く考えずに友達と話していたのかもしれないが、今となってはそれが本当に気にしていなかったのか『無意識的に意識していた』ものだったのかは分からない。
ただ一つ言えることは、私がこうして今現在抱えている『恐怖心』は、日に日に強くなり、顕在化し、吐きどころを失っているということである。
そのため、このほとんど動かしていなかったブログに書き出すことで、その内訳を自分で振り返り確認できるようにしつつ、心に留めるべきでない毒を吐き出せる場所であるように、克服できるようにしようというのがこの記事の本筋である。



私は小さい頃から友達に恵まれ、『学校の勉強』という意味でもある程度できたし、部活動でもそれなりに活躍できた。
転機は高校時代、それまで仲の良かった(と私が思っていただけなのかもしれない)友達との溝が決定的に深まったことだ。
本来、思春期という時期に各々の人格がまだ形成途中であり、『変わらない』ことの方が難しいものなのだが、それは当時理解しきれるものではなく、ヒビの入った関係性を修復することは今後一切できなくなるのである。

私は、関係性を保ちたいと思う一方で、その思いを簡単に壊すような言葉を無意識的に平然と吐いてしまう悪癖があった。
いや、私としては自分なりに『これは違うだろう』という思いを持って、自分なりに築き上げてきた論理性と倫理観の上でそういった発言をするのだが、その『自分なり』とは一般的に『自己中心的』と解釈されても不思議ないものである。

愛想を尽かした友達とは、今に至るまでお互いの本音を知ることなく、語ることも打ち明けることもなく、そしてお互いが既にそれを望まなくなっている。



大学を卒業し、内定式3日前にギリギリで滑り込んだ銀行での仕事も、長くは続かなかった。
詳細は以前このブログに記載しているのでここには記さないが、私はここで今まで分かってはいながらもその現実から出来得る限り逃避してきた『自分の能力値の低さ』を決定的に自覚するようになってしまった。

他人に否定されることを受け入れ難い現代っ子よろしく、自分が自分らしくあるためのものそのものが見当たらなくなってしまったような、強烈なトラウマが残ってしまった。



思えば、幼少の頃から私は他人と自分を比較して生きてきた。
部活動も勉強もそれなりに頑張れたのは、親からの期待を気にする余り、自分が他人よりも優秀であると証明する最も明確な物差しであるからだったように思う。
ここで私が成績を残せば、何もできない自分でも存在意義を見出だせるし、何より周りから褒められる。
褒められることで、自分が最も恐れる『自分の能力値の低さ』を現実的なものにしてしまうことを回避していたのである。

そしてその意識は、いわゆる強烈な『劣等感』として私自身を取り巻き続けているのである。



私は、今に至るまで常に劣等感との戦いだった。
勉強においても、部活動においても、仕事においても、人間関係においてもそうだ。
そして、それはお笑いというジャンルにおいても明確に存在してしまっていることを打ち明けなければならない。
いや、むしろ私が最も劣等感を抱いているのがお笑いに関してであり、それでも漫才を続けたいと思う理由は、ひとえに『好きだから』である。
好きだから、劣等感を抱えたままではなく、いつかどこかで何かしらの形で自分を認めてくれる場面が生まれることに淡い期待を抱き続けているのである。

気負うことで、緊張感も高まる。
当然、ミスをする回数も以前より格段に増えた。
いつしか『ウケたい』という思いよりも、『失敗したくない』という思いが強くなっていき、それが益々緊張に拍車をかけた。
失敗をすると、恥ずかしさが我慢できなくなる。
他人の目を気にしてしまい、羞恥心で一杯になってしまう。
それは以前、どこかで似たような感覚の出来事を経験しているかのようだった。

銀行員時代、上司からの言葉によるストレスはもちろん、お客様や同僚・先輩の銀行員が周りにいる中で『自分がいかに劣っているか』を演説される羞恥心。
私はその強烈な恥ずかしさが、自らの顔に出てしまう事が多々あったのだと思う。
そしてそれは、相手の怒りを更に煽ることとなり、『お前はいつも人を舐めている』『ヘラヘラするな』という言葉へと変換され私を刺すようになる。
とどまることのない悪循環。
しかし私がいくらその事を自分で理解していたとしても、自分の力だけで矯正することはできなかったのである。
私は元来、高圧的な態度で接してくる人間や、私より優位に立つ人間に対しての恐怖心が強い。
部活動や塾、仕事においては当然とも言えるかもしれないが、そういった人に対しては極度に緊張し、強い苦手意識を自覚し、それ故頭が真っ白になってしまうことも珍しくない。
あるのは『私から退場する』という逃避の選択肢のみである。



私はこの劣等感を抱えたまま、果たして今後幸せに生きていくことができるのだろうか。
そんな不安で頭がいっぱいになる。
しかし、それを吐き出せる場所は見当たらなかった。
それを表に出すことも、本来良いものでは無いのかもしれないと思っていたし、今でもその思いは同じだ。
少なからず人前に立つものとして、こういったことを自白してしまうことは、今後の自分の活動に影響が出てしまうのではないか。
と、テキスト上ですら他人の目を気にしてしまっている始末である。

もっと能天気な人間でいたかったし、ポジティブで明るくて社交的でいたかったものだ。
しかし私の本当の姿は、ネガティブで暗く劣等感に満ち溢れたドロドロとした心が外に溢れでないよう、必死に押さえつけ隠し続ける極めて情けないものであり、それが悲しさを増幅させているのである
もしかしたら、これでも十分に能天気な人間なのかもしれないし、少なくとも『お前は能天気だな』と思われているのかもしれないが、私自身が自分をそのように評価することはできないのだ。



しかし、こういった劣等感が『私だけが感じているもの』であるとも思ってはいない。
きっと誰しもが、私には見えないだけで、何かしらの劣等感と戦っていて、それに立ち向かっているはずなのだとも理解している。
私は間違いなく、自分が安心したいだけなのだ。
そしてその安心がいつまでも得られない現状は、『高望みで傲慢で欲張りな自分』によるものという本来自分で貼る必要のないレッテルとして変換され、それが私自身を傷つけているのである。
私はこの『必要のない自傷行為』のエンドレスなループから一向に抜け出せなくなってしまっているのである。



最後に、こうやって文章を書くことで少しでも気を紛らわせる、発散させるという冒頭の目的は、一定程度達成できたように思う。
打ち明ける場所の無い自分の思いを、テキスト上だとしても好き勝手書くことは、初めは身勝手極まりないのではないかとも思っていたが、いざ書き進めると少しずつだが辛さが薄まっていった。
自分が自分の弱さを認めることはやはり難しいのだが、それを隠し続けるのではなく公開することによって、ある種の『プライド』を自ら捨てることは大切なことなのかもしれない。

願わくば、この一片も面白みのない笑いとは真逆の真っ暗な文章に対して、ここまで耐え抜いて読破してくれた人がおり、その上で私自身が抱える弱さを少しでも理解してくれる人がいたのなら、少なくとも無駄な自白にはならなかったのだと思う。
努力無き者が勝手に抱える劣等感はただの自業自得でしかないので、これからも頑張ります。



最後まで長々と拙い文章でしたが、読んでいただきありがとうございました。